道草雑記帖

「神楽坂 暮らす。」店主の備忘録/日々のこと/器のこと

終戦の日

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太平洋戦争の終結から70年。

すでに70代後半になるうちの両親は空襲や疎開を経験しており、小さい頃から僕は、当時の話をいろいろと聞かされて育ってきました。それらの体験談を元に考えてみると、あの戦争の一番大きな特徴って、『本来国内で生命と財産を守られているはずの市井の人々が無防備なまま敵国の攻撃にさらされた』ということに尽きるんじゃないかと思います。結果として。
これは、それまで日本が経験してきた『兵士vs.兵士の戦争』(日清・日露戦争)とは質がまったく異なるものだと言えるでしょう。
米軍の絨毯爆撃には人道的観点から疑問符がつくとは言え、社会の構成員である国民を守れなかった日本の指導部は、いったい何してたんだよ、ということになりますよね。第一次世界大戦下のヨーロッパで既に現出していた『総力戦』という概念をよく理解していなかったとしか思えない。国際情勢に疎く、自国民を守る算段もないまま、他国にケンカを吹っかけるなっつうの。
彼らの責任は本当に重くて、絶対に免れることはできないと思いますよ。そもそも社会の構成員が根絶やしになってしまったら、国の存立云々なんて言っていられなくなるわけですからね。
僕自身、(比較的穏健な)保守主義者だという自覚はあるけれど、あの戦争を正当化しようという方々の最近の動き(東京裁判の再検証とか)に対しては、ものすごく違和感を感じるんですよね。同胞300万人の骸を前にして、そこにいったいどんな正当性が存在するっていうの?あれだけ爆撃され、真っ向勝負で力負けしたというのに、正当性もクソもあったもんじゃないでしょう。きちんとした青写真を描かずに戦争を始めて300万人もの犠牲者を出したことに対して言い訳が成り立つはずなどないでしょう。喉元過ぎて熱さを忘れ、今更負け惜しみを言うのは止めた方がいい。潔くないよ。
冷静に見て、あの戦争の指導者たちが『悪い指導者』であったことは紛れもない事実。東京裁判が連合国による恣意的な断罪であろうとなかろうと、戦争の顛末を見れば一目瞭然、彼らは『300万人の国民を見殺しにした悪い指導者』だったと言えるでしょう。
ただこれは、左寄りの人たちが言う『戦争は善か悪か』という理念的な命題とはまた別の話ですけどね。

失われた300万人の尊い命について思いを馳せると、本当に胸が苦しくなる。
そして、決して彼ら同胞の死を無駄にしてはいけないと思います。

これからの課題は、同じ過ちを繰り返さずに(つまり戦争をせずに)、いかに日本という国が生き残り、繁栄してゆくかということ。僕は『脳みそお花畑』な人間ではないので、過不足のない自衛力は絶対に必要だと思っているんですよ。それこそ抑止力というものだから。
何しろ隣に10倍以上の人口を持つ独裁国家が存在するわけだし、まさに『備えあれば憂いなし』。
ただ、安倍内閣が提出している安保法制というのはとても杜撰に見えて、これで大丈夫なのかな、と不安になります。もし近い将来この国に悪意を持った指導者が登場した場合、この法制って恣意的に運用できそうじゃない?曖昧に解釈できそうな付帯条項も多いようだし。政権が変わるごとに運用の仕方が変わる法律なんて、『は?』っていう感じですよね。戦争の抑止力になるのであれば全然構わないけれど、長い目で見ると、この国が再び戦火に巻き込まれる危険性をはらんだ法律のように思えてならないのです。

右でも左でもなく、本当にニュートラルにこの国のありようを考えることができる政治家はいないのだろうか、などとも思うけれど、今日は慰霊の日。亡くなられた人々に心の中で手を合わせつつ、今晩は静かに献杯したいと思います。平和の尊さを噛みしめて。


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