道草雑記帖

「神楽坂 暮らす。」店主の備忘録/日々のこと/器のこと

工人どもが夢の跡

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僕が『物作り』の世界(いわゆる工藝)にハマってしまったのは、15年ほど前のこと。長崎県波佐見町の最も古い窯業地区である中尾山のやきもの作りに触れたことがその一因です。それ以来、毎年一回は九州出張に行くけれど、自分自身の仕事の原点である中尾山には必ず立ち寄るようにしていています。
2年前、2013年の初夏に訪れた時は、その歴史とか根源とかに迫ってみたいという気持ちがわいてきて、時間を作って山の中腹にある登り窯の廃窯跡まで足を延ばしてみることにしました。
画像の遠くに見えるのが、中尾上登窯。往事はかなりの規模を誇っていたことがわかります。

*上の方にはブルーシートが被せられていて、復元工事をしていたみたいです。


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ぐるりと中尾の郷を廻って、登り窯の下に近づいてみます。
そこには波佐見町教育委員会の説明文があり、この登り窯が1644年に開かれて1929年まで280年の間供用されていた旨が記されていました。
江戸幕府が安定期に入った頃に最初の灯が灯されたことになるわけですが、このような大規模な生産拠点(全長160m=登り窯としては当時世界最大規模!)を作ったということは、この時期すでにモノを大量に生産し全国に流通させる経済システム(および消費社会)が、わが国に存在していたことになります。このことは、文化史的にも文明史的にも特筆すべきことなのではないでしょうか。
そしてもうひとつ驚いたのは、この江戸時代初期の登り窯が昭和4年まで稼働していたという事実。江戸と明治との間にはあらゆる分野で歴史の断絶が存在するけれど、社会の根底を支える生活文化(この場合は『食器』)においては、江戸時代の人々の暮らしぶりがゆるやかな継続性を持って昭和の初めまで連綿と続いていたことが伺えます。
歴史教科書的な見方だと、明治時代に入ってこの国の社会や文化がスパッと変わってしまったような印象を受けるけれど、実際はそうでもなかったわけですよね。いろいろな分野で徐々に新しい色が塗り重ねられてゆき、それが一巡することですべての分野の色が塗り替わったように見える。それが社会の変化というものなのかもしれません。

中尾の登り窯は廃窯から86年かけて風化して『遺跡』になってしまったけれど、今は『情報社会』という名のもと、もっと慌ただしい時代。ひとつの物事が風化してしまうのに、86年どころか、10年もかからない時代になってしまいました。
そうとわかってはいるけれど、それでも作り手は物を作り、売り手はそれを売ってゆく。部外者から見れば、それは不毛な営みのように見えるかもしれないけれど、『物作り』というのは、この時代に生きた痕跡を残したいという人間の本質的な叫び。それは、江戸時代の工人も現代の作家も変わらないものなのかもしれません。
そして、僕もその一人。旅の写真を整理していたら、『工人どもが夢の跡』に立って時の流れに想いを馳せた二年前のことを思い出してしまいました。ちょっぴりセンチメンタル。


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