道草雑記帖

「神楽坂 暮らす。」店主の備忘録/日々のこと/器のこと

天に星 地に花

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思えば、5年前の地震の日は、まだ代官山の木造アパートで店舗の営業をしていました。
本震とその後頻繁にやってくる余震におびえつつ、なんとか一日の営業を終えて家路につこうとするも、電車は運転見合わせ。仕方なく徒歩での帰宅を試みたけれど、大通りは人で溢れ返っていました。僕が住む世田谷はもともと農村。かつて農道だった細い道が複雑な角度で入り組んでいて、大通り沿いに歩かないと迷ってしまう。でも大通りを歩こうとすれば、帰り着くのは夜中を過ぎてしまいそうな状況でした。
ここは思案のしどころ。さてどうしたものか、と夜空を見上げると、たくさんの星がまたたいていました。
世田谷の自宅がある西の方向を見れば、冬の星座・勇者オリオンがゆっくりと沈んでゆくところ。オリオン座が真東から上り、真西に沈むことを思い出し、大通りを捨てて、人気のない裏道を星だけを頼りに歩いてゆくことに決めました。老齢の父母のことも気がかりだったので、とにかく歩く。歩く。歩く。

結局、勇者の導きのおかげで、代官山から世田谷の端っこまで2時間半ほどで踏破できたけれど、これって、5000年前に星座という概念を編み出したバビロニアの羊飼いたちとそう変わらない行動のように思えます。(オリオン座自体はヨーロッパ人の考案ですけどね)
現在家々で埋め尽くされている東京西部の台地は、もともと鄙の地。武蔵野と呼ばれるだだっ広い台地の東端にあたる世田谷は、古代遺跡が多いところです。バビロニアと言わずとも、2000年前の武蔵野に生きた古代人たちだって、狩りや採集で遠出して迷ったときには、たぶんこうやって星を頼りに行動したのではないでしょうか。
文明を知ってしまった現代人としての眼ではなく、人間としての心の眼を見開いてみれば、暗闇に沈むたくさんの家々が視界から消し去られて、土地の本来の景色が広がってゆくような気がします。自分にとって確かなことは、重力によって大地にしっかりと繋がれていることと、頭上に無限の宇宙が広がっていることだけ。人間が置かれている状況なんて、今も昔もそう変わらないのです。
そう考えると、「われわれが享受している『文明』という名の光は、死という根源的な恐怖を忘れるための幻燈に過ぎない」という解釈も成り立ちます。人間なんて本来、万物を支配する摂理に弄ばれる非力な存在でしかないのですからね。
ただひたすら歩き、諦観の境地にいたようなあの2時間半。心だけが妙に冴えていたことを、今も思い出します。

福島の原発事故は、その後に起こりました。

僕は大学で歴史を学んでいましたが、戦後日本の高度成長は、われわれ日本人の素養もさることながら、「歴史上の幸運」という天佑があったからこそ成し遂げられたものと理解しています。冷戦という国際情勢はその一番大きな要因だけれど、この時期の列島が地震の静穏期に当たっていたことも見逃せないのではないでしょうか。
原発は、まさにその時期に計画され建設されました。戦争に負けた日本にとって「豊かさ」は敗戦という屈辱を帳消しにしてくれる新しい価値観だったことでしょう。もっと豊かになりたいという願いはおそらく当時の日本人の総意だったはずだし、原発はそれを果たすための夢のエネルギーだと考えられていたのだと思います。
でもバブル崩壊及び経済の衰退という「二度目の敗戦」の後に経験することになった5年前の原発事故は、もういちどわれわれの価値観を変えなければいけないという、歴史上のサインのように思えてなりません。

天に星、地に花。
花とともに生きられないような大地は子孫たちに残したくない。
われわれは歴史の中のリレー走者なのだと自覚して、目先の豊かさや経済性だけを考えることをもうそろそろ止めなければいけないと僕は思っています。
本当の豊かさって、いったい何なのだろう。文明といううたかたの幻燈を取り除いたところにある真実を、心の眼でしっかり見透かしてゆきたい。あの地震原発事故から5年経って、その思いは僕の中でさらに強くなっています。
そして、故郷を追われた方たちの苦しみに寄り添う気持ちは、これからも持ち続けていたいと思うのです。


神楽坂 暮らす。 オフィシャルページ http://www.room-j.jp